島原街道・殿さん道を歩く2

AM11時、町村合併で雲仙市になったばかりの国見町迄来た。
ここは高校サッカーで何回も全国制覇した国見高校がある。街道筋からは500mほど北側に校舎が見える。街道には昔を偲ばせる石垣が残っているが大きな樹木の根が食い込み、石垣は膨らみ崩れそうになっていた。
この先1キロばかり行くと土黒川沿いを歩く。この川は別名鉄川とも呼ばれている。この付近一帯で砂鉄が採れ古代から製鉄が行われていたという。
製鉄で出てくる鉱滓が付近一帯から発見され、鉱滓をカナクソと言い、「カナクソ原」と呼んでいるという説明版があった。カナクソとは的確で面白い表現だと感心して読んだ。
篠原の十字路に「旧島原藩 札元」という案内板が建っている。
殿様が参勤交代で江戸へ行くときは北へ。南は雲仙へ、東は島原へ、西は長崎へと街道の主要な十字路になっていた所である。
11時40分、国見の神代(こうじろ)までやってきた。
天気は回復、時折太陽が顔を出すようになった。
神代は佐賀藩神代領として鶴亀城があり、周辺に武士の屋敷を集めて小さな城下町が形成されていた。
ひっそりとした武家屋敷。
鍋島陣屋の長屋門
豊臣秀吉の九州征伐の後、論功賞として鍋島氏に三千石が与えられた地に、元禄時代に建てられたと言われている長屋門。

武家屋敷を出て長浜海水浴場沿いに出る。北からの海風がまともに吹きつける。ここからしばらくの間は国道251号線を北西に向かって進む。歩道を歩いていても車が多く落ち着かない。
12時半、コンビニの駐車場に待機していた救護車に乗り込み昼食をとる。窓の外を見ると横殴りの雪が降り出した。また天気は悪くなってきた。ゆっくりと休憩もしておられない。10分の昼食で先を急ぐ。

島原半島はキリストの信仰に纏わる話題が多いところである。しかし、猿田彦、恵比寿さん、お地蔵さんなどを路地や四辻で多く見かけた。きれいな前掛けに新しい花が供えてあり、神や仏に対する信仰も深いところのように感じた。
この家は、住まい中に一室を設けお地蔵様を祀ってあった。
14時、雲仙市吾妻町三室まで来た。干拓潮受け堤防の排水門が近くに見えるところまでやって来た。
スタートして6時間経過している。予想していたよりも疲れは感じない。この調子だと何とか完歩できそうだ。

諫早干拓堤防は、堤防延長7キロが北から南に走っている。北と南にそれぞれ排水門があり、南側の排水門は旧吾妻町にあり、右手近くに眺めながら北西に向かって歩く。北からの冷たい海風が相変わらず強い。
この付近から海岸線とも別れ田んぼやまばらに人家が連なる街道筋になる。
15時、海岸から離れ陸地に向かう。
旧愛野町に入ると両側に人家がつながり密集している。
醸造元の大きな家と赤いレンガの煙突は当時の繁栄をしのばせる面影は残っているが、近年の焼酎ブームに日本酒の売れ行きは押され気味だという時代、この造り酒屋も何となく淋しそうである。
歩き続けているので雪は舞っていても身体は寒さを感じない。しかし、空腹である。造り酒屋に立ち寄り冷酒をちょっと一杯?と思いながら最後尾から前の人から離されないように懸命に足を交わす。
光西寺付近の街道には両側に昔のままの石積の塀が残っていた。ゴールの土居口番所跡まで残り2キロぐらいになった。腕時計を見ると15時15分。目標にしていた16時前には滑り込める。
土居口番所跡に到着したのは15時45分。
島原大手門をAM8時ちょうどにスタート。目標の8時間以内に何とか滑り込んだ。もちろん最後尾のグループであったが無事に完歩できたのでほっとした。
途中、10分の昼食に休憩した以外はほとんど歩き続けた。連続8時間の長丁場は初めての経験であった。
完歩できたのはマイペースで最後尾から着いていったことに尽きると思う。トップとの差は1時間あったという。
雨衣を着たり脱いだり、傘をさしたりザックに仕舞い込んだりと天気に振り回されたウォーキングであった。
名所、史跡は時間をかけて見学したかったが時間に急かされ、中途半端で終わり心残りである。
街道筋は殆どが国道と別ルートで車の往来も少なく安心して歩けた。自分の足で稼がないと新しい発見も出会いもないと感じた殿さん道であった。
救護車のご厄介にならず、30キロ完歩できたことは何よりも嬉しく、これからの励みになった。

お世話になった「千々石少年自然の家」の職員の方たちに感謝します。

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