第12回島原半島ツーデーマーチ

島原ステージ『普賢岳災害・復興の足跡コース』 20km
◆期  日  2005年10月22日(土)
◆コース  復興アリーナスタート⇒道の駅「水無本陣」⇒水無大橋⇒総合運動公園⇒本光寺⇒武家屋敷⇒島原城⇒外港ターミナル⇒復興アリーナ、ゴール

 10kmでは少し物足らない、40kmでは完歩に自信がない。20kmコースならばどうにか歩けそうだということで20kmコースを選んだ。

 受付でもらった大会資料によると、20kmコースのタイトルは「普賢岳災害・復興の足跡コース」になっている。これを見て噴火当時のことを思いだした。

 雲仙岳が白い噴煙を上げているという情報が伝わったのは、1990年11月17日の10時ごろであった。

 その時、国道の管理に携わっていたため、噴火の位置、状況を確かめ報告するよう指示され、雲仙・仁田峠へ車で走った。

 島原・外港から長崎へ通じる国道57号線は雲仙岳の中腹を蛇行しながら雲温泉街へ登っていく。噴火の位置によっては通行車両の交通規制も考えなければならない。その検討判断をするための情報収集を命じられたのだった。

 地元役場、消防関係者が確認し戻ってくるのをロープウェイ駅で待った。標高1000mを越す仁田峠は寒かった。
一時間後、戻ってきた消防関係者から状況を聞いて無線で九州一円へ発信した。
15年前のことになる。

 その後、日毎に噴火は激しくなり、噴煙による降灰、溶岩ドームの崩壊による火砕流と土石流の発生に島原半島の人々は苦しめられた。

 あれから15年の歳月が過ぎた今日「がまだす精神」で復興に頑張ってこられた様子をこの目で確かめながらのウォークになった。



出発式
 噴火によって隆起した溶岩ドームはいまだに茶褐色の岩山である。普賢岳より100m高くなったドームは「平成新山」と命名され国の天然記念物に指定されている。

 その姿は昨日とは打って変わった天候の急変で、暗雲に覆われ見上げることは出来ない。その雲の異様さに噴火当時の噴煙の怖さを思い出した。

 会場の駐車場に着いて、朝の腹こしらえする8時ごろには雨がぱらぱら降りはじめた。

 スタート時間が近まるにつれ、会場では歓迎のアトラクション、大会挨拶、結団式が行われた。アリーナの大きな建物の中は、外の強風、いまにも降り出しそうな天候とは別世界で暖かく無風状態であった。
 いよいよ20キロコースのスタート。
 その前に、「愛犬とお散歩ふれあいコース」(5キロ)が出発した。

 ウォーキング熱は人間様だけではなく、お犬様を主体にしたコースまで出来る時代になった。44組の参加があったというから人気のほどがうかがえる。

 ちなみに20キロコースの人間様の参加者は400人だそである。地形的に辺鄙なためか他の大会と比べ少ないような感じがしないでもない。

スタート

高架橋と別れ進路を北にとり坂道に差し掛かる。
 復興アリーナを出発して島原・深江道路高架橋下を平行に西方向へ歩いていく。30分ほどして北に進路を変え、普賢岳方向へ緩やかな坂道を登っていく。

 この辺りまで来ると縦長に行列は間延びして、タイムを競うウォーカーと、のんびり見物型のグループとではかなりの開きが出てきた。

 どちらかといえばのんびりと写真を撮りながらタイプの私はこの辺りですでに残り3分の1の集団にいる。

 北風が強く、ザックに括り付けて担いでいる「健康ウォーク21」ののぼりがはためき足をとられバランスを崩しそうになる。

 島原・深江道路は、噴火災害のため幹線道路が500日にわたり交通規制を余儀なくされたため、海岸側に火砕流、土石流の影響を受けない高架式の高規格道路として造られた。

 200年サイクルで噴火するという普賢岳の災害に備えたバイパスだといわれている。
 第一チェックポイントは、道の駅「水無本陣」。ここには土石流で埋まった民家が遺構として保存されている。 

 今日の参加者がこの遺構を何人見学されたのだろうか。一時的ではあったが強い時雨が襲い、あわただしくスタンプを押して通過する人が多かったから・・・。

 土石流が氾濫した水無川の右岸(深江町)は堤防兼用で公園化されている。災害当時この辺りは想像を絶する犀の河原であった。

 この画像は、チェックポイントからすこし水無川を遡ったところで公園の中にこんな人形を見つけ写したものである。看板には「ろくべえの里」とある。

 島原半島には「六兵衛」という甘藷を干して粉にし、その粉で「うどうん」にした素朴な味の郷土料理がある。私は大好きだ。
由来は知らないがこの「六兵衛さん」という人物が元祖かもしれない。

 また島原半島の「そうめん」は有名である。話は前後するが完歩した後「そうめん」の接待を受けた。
「もう一杯」と、お代わりを催促した。それほど美味しかった。

           現在の水無川
 写真左側のコースより堤防へ寄り道して、拡幅された水無川を写した。前方は眉山。右側の堤防外側が島原市鎌田町付近になる。

噴火の翌年7月1日に発生した土石流のつめ跡。その後何回も土石流は発生し、周辺は一変してしまった。

島原市鎌田町付近(写真・記録集・鳴動普賢岳[長崎新聞社]より)
 この標柱には「火砕流最長到達点」と記してある。
 当時の資料を調べてみると平成5年7月19日18時21分、噴火地点から下流へ5.5km流下している。上流に架かっている現在の水無大橋より500mほど下流の位置になる。

 上流のブルーの橋(水無大橋)は土石流により流失した後、本格復旧事業として平成8年に着工された。今後の噴火災害に備え、前後の道路を嵩上げし橋長325mの大橋となった。

 この大橋の橋台を回るようにして河川敷から国道へ上がりこの橋を渡って島原市内へ向かった。

この先のコースは、土石流の被害はなかったが大量の降灰で農作物の被害が大きかった。大きな噴石と風で舞い上がる灰にヘルメットとマスクは欠かせない生活用品になった。

水無大橋と標柱

本光寺の山門
 水無大橋を渡って、眉山の山すそを歩く。札の元、門内の集落の間を抜け、総合運動公園を目指す。水無川の吹きさらしと違って眉山が北風を遮り無風状態である。このころには明るい雲に変わり時より薄日がさすようになっていた。

 樹林の中を歩き、田んぼの中を歩き、一段と高いところにある運動公園への道は登り勾配になり、息が弾み汗がにじんできた。

 運動公園では先着組が思い思いの場所で休憩し、あるグループは昼食を食べていた。時計を見ると11時。スタートしてから2時間が経過している。

 この先は坂を下り、薬草園跡、島原農業高校、本光寺を通り島原城へと続く。いまは空腹も感じないし歩きムードに乗っている。このまま通過して島原城で昼飯を摂る事にして通過する。

 本光寺の境内に入り、外から建物、お墓を眺めただけで出てきた。
靴を脱いで本堂の見物するのは時間がかかりすぎその気にならなかった。観光目的でゆっくりした時間を作って出直したがよさそうだ。
 3人のウォーカーも見学していたが外を一回りしただけで山門から出て行った。
 島原市街地は城下町の面影があちこちに残っている。
古い建物はなくても石積みの塀は昔そのままで当時をしのぶことが出来る。

石塀のある市街地

武家屋敷
 県外から参加したウォーカーはこの武家屋敷は見ておきたい場所のひとつであったらしい。たくさんの人が足を止め建物を眺めていた。
 運動公園を出発してから1時間。島原城へ着いたとき、12時を知らせるチャイムが聞こえてきた。

 城内の広場では骨董市が開かれ、お城を見物する観光客も結構多くて賑わっていた。一段と高いところの梅林の下で弁当を食べる。

 海から吹き上げる北風で体温が下がり寒い。のんびりと休憩する予定であったが、急いで食べ終わり再びザックを担いで歩きだす。

 一旦水のない堀のそこまで降りて、そこから階段を登って市街地へ出た。胃袋の重みで歩く調子がいまひとつ出ない。ペースを落として大手門へ向かう。

 大手門は市役所もあり、商店街のアーケードもあって街の中心になっている。
 ここにスタッフが立ってコースの案内をしていた。
「40キロはこちらへ。20キロコースはそのまま真直ぐ」言われるままに進んだ。


島原城

古い建物
 武家屋敷以外で石の塀はあちこちで見かけたが古風な建物を見かけたのはここが初めて。
 白壁に飴色の建具、渋を塗った柱、近年改装されたものだろうが落ち着きがあって、つい足を止めて眺めたくなる。
 「鯉の泳ぐまち」に見惚れるて歩いていたらコースを間違えてしまったらしい。

 その時、前後して20人ばかり一緒に歩いていた。私はその中間ぐらいで前の人を当てにして付いて行った。「みんなで渡れば怖くない」の心境で安心し疑いはなかった。 

 会場でもらった地図はみんな持っているはず、前に行く人がコースを間違えるはずがないと信用して手に持っていながら自分の地図で確認しなかった。

 前の数人が立ち止まってキョロキョロ見回している。間違いに気付いたらしい。自分の地図で現在地を確認してみるととんでもないところにいた。白土湖へ左折すべきところを外港の方へかなりの距離直進で歩いていた。あと1キロぐらいで第二のチェックポイントである。

 いまさら引き返す気持ちに皆ならないようだ。ここにいた全員がチェックポイントへ向かって進んだ。

 スタンプを押してもらったときがちょうど13時。弁当を注文していた人はここで渡され、食事をしていた。
昼食は30分まえ、島原城で済ましている。そのまま通過、ゴールへ向かった。

 雲が切れ、強い日差しが照りつけ、汗が流れる。ここに来て初めて「暑い!」と感じながらゴールへ急ぐ30分であった。

鯉の泳ぐまち
火砕流、土石流、降灰に怯えながら、頑張ってこられた皆さんの「ばまだす精神」に敬意を表しながらのウォーキングでした。

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