青の洞門

 青の洞門は子供のころから名前だけは知っていた。

 戦前の 修身の教科書にも取り上げられた菊池寛の『恩讐の彼方に』の記憶からだと思う。しかし、実際に現地に行ったのは二十歳前後のことで、もう記憶がだいぶ薄れていた。

 五十年ぶりに、再び訪れる機会があった。求菩提山に登った後、帰りに少し回り道して立ち寄った。
 いまは新緑のころ、紅葉の観光シーズンとは異なり人出も少なくひっそりとしていた。人影の少なさは、前日からの大雨注意報の影響もありそうだ。

 青の洞門のことは知っているつもりでいたが、青の洞門の青とは何か、何時ごろ掘られたのか、長さはどれくらいなのかなどなど、現地に立ってみて、いろいろと自問してみると知らないことばかりであった。

 青とは、随道が掘られた場所の地名で、宝暦13(1763)10日に完成し、長さは約342mという説もあるが。別の資料によると185mと書いたものもある、等など再認識した寄道であった。(2004・5・16)




中津側から日田方向へ歩くとこんな風景になる。
観光の時期外れなのか、大雨注意報が出ているためなのか車も少ないし、観光客の姿もない。
傘に落ちる雨の音を聞きながら、新緑を眺めて歩くのもおつなものである。
所々に明り取りの孔がくり抜かれている。
この大きさは当時のままだろうか?
はつり面が綺麗に仕上がっているところをみると、あとから観光用に大きくしたのかもしれない。
トンネル内にある禅海和尚の像。

ロウソクたてと線香の筒、造花が供えてあった。
皺だらけの、髭を生やした老人をイメージしていたがこの像は顔が整い若い。
たぶん、修身で習ったころの小学生の時に、この像に出会っていたら老人に見えてかもしれないが、歳を取り過ぎたいまは、この像が若く見えてしかたがない。
現在供用中のトンネルは、この写真の右側にあり、昔のトンネルは山国川(左)寄りにあって現在の道路よりも2m近く低い位置になっている。
日田方向から中津方向を望む。
現在の道路わきの歩道の左下に明り取りが見える。現在の歩道部分が当時のトンネルではないだろうか?と思いながら歩道を歩いた。
中津側から日田方向へ歩いて約10分足らずトンネルを過ぎると大駐車場に着く。
その少し手前の山裾に「旧トンネル入口」の標識が建っている。道路を横断して階段を下ると戦時中の防空壕を思わせるトンネルが現在の道路と同じ方向に15mぐらい続き、左側に直角に曲がっていた。
左折すると向こうは明るかった。
山国川の増水した水が足元まで浸水してその先は歩けない。
現道路の下を横断する形で昔のトンネルがあるために4面がコンクリートのボックスになり補強されているようである。

数日前からの大雨で確かに山国川は増水して水嵩が上がっている。昔のトンネルはこんなに低いところにあったのだろうか?
これくらいの雨ですぐ通れなくなる高さではなかったと思うが、たぶん横断ボックスをを作る時に位置を掘り下げたに違いない?と一人であれこれ想像した。
ここからもとの入口へ引き返した。
山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾にある洞門。
傘を差して歩いているところがトンネルの位置になる。
競秀峰の奇岩
霧にむせぶ競秀峰

山国川に面してそそり立つ岩壁。
写真左端から右端までの裾に洞門はある。
この日、山国川は増水して恐ろしい勢いで流れ下っていた。
この水勢の様子は洞門ができる前もこんなであったろうと思いながら眺めた。

トップページへ