大島・崎戸を訪ねて

※ 平成12年9月29日、オレンジハイキングクラブの『ひまわり山行部』で日帰り観光したときの記録です。

旅行は晴天がよい。しかし、自分の思いのままにならないのが天候だ。

サンシャイン海道は青い海と、青い空と、そして美しい海岸線、遠くには五島灘に沈む雄大な夕日が見られるはずだった。しかし、天はこの日の『ひまわり山行』に味方してくれなかった。

昨夜からの秋雨は一日中降り続き、視界は悪く目で見る楽しみは奪われた。

サンシャイン海道は、大島大橋開通により、九州と大島、崎戸島の二つの島が陸続きになり命名された海道である。

大島大橋公園の案内板を見て「アレッ」と思った。大島大橋開通の日が平成11年11月11日のゾロメになっていたからである。偶然、私が初出版した拙書『草人木の花』の発行日と同じだ。なんとなく、斜長橋では九州一長いというこの大島大橋に、同日生まれの兄弟分のような親近感を覚えた。

これから訪ねようとする大島とその先にある崎戸島は炭鉱で賑わった島である。

この二つの島のことは高校生のころから名前だけは知っていた。だがこれまで一度も来たことはない。

工業高校の同級生の中に大島・崎戸出身の生徒が五人いて、当時炭鉱景気で賑わっていた街の様子を得意げに話していた。炭鉱マンの子供は、身なりも金使いも派手で炭鉱景気と如実に現していた。

炭鉱は当時の花形産業で高卒の初任給は高く、卒業したら炭鉱に就職を考えたが親の反対でそれは叶わなかった。このような経緯があり、一度は行ってみたいと少年時代から憧れた島であった。

五十年の月日が経った今日、その思いを果たそうとしているが、社会情勢の変化で当時の勢いはないことを覚悟しての訪れである。

大島町は造船所の赤いクレーンが目立ち炭鉱のイメージはなかったが、バスの中から古い平家の木造住宅が密集した一角を見つけた。それは元の炭鉱住宅街らしかった。同級生が話していた賑わいはなかったが、初めて訪れた地であるのに、なんとなくなつかしさを感じるから不思議である。

崎戸町では炭鉱の施設の一部であったらしいコンクリート骨組みの建物が雑草の中にニョキニョキと建っているのがいたるところで見られた。

トンボ公園、花街道、咲き都ハーブ園など観光誘致の町おこし施設があちこちにあったが、いずれもこの天気では人出もなくひっそりとしている。

炭鉱閉山による人口流失で廃虚となった高層アパート群は窓枠もなく骨組だけが風雨にさらされ痛々しい姿で山頂に残っている。たぶんこのアパートに住んでいたであろう同級生の顔が浮かんできた。

歴史民族資料館では炭鉱の歴史を物語る道具、保安作業の免許証などを見た。展示してある一抱えもある大きい黒ダイヤを、たぶん持ち上げられないだろうと諦め気分で持ち上げたら、思ったよりも軽く持ち上げられたので拍子抜けした。

三十年前までは風呂に石炭を燃やし、頬被りして煙突掃除をしていた時代が浮かんできておかしかった。

大島にも崎戸にも炭鉱を象徴するボタ山らしいものを見かけなかったのは不思議だった。

 国民行宿舎・御床島荘から歩いて6分のところにある崎戸島最西端の展望台からは『碧い海の向こう側には五島列島や平戸島が見える』はずであったが視界は薄雲のなかで何も見えない。展望台に行くのは取りやめ昼食の時間には少し早かったが国民宿舎にはいりこんだ。

御床島荘で会食していると廻りの藪の中から狸の集団がぞろぞろと窓の外に集まってきた。あとになって分かったがお客さんの食べ残しを調理場の人たちが庭に投げてやり、残飯整理を狸にお願いしているとのことであった。

ここでは狸が観光のいち役をかっているらしく隣の建物には「みとこ狸の湯」があった。
「晴天の日にまたいらっしゃい」と狸たちに見送られ帰途についた。


大島大橋
(大島町役場のHPから)
       
崎戸島最西端の展望台           トンボ公園
(崎戸町役場のHPから)

(おことわり)
旅行当日は雨天で写真撮影ができませんでした。3枚の写真は大島・崎戸の各役場のHPの写真をお借りしたものです。

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