一支国(壱岐)を訪ねて(2)



旅 行 日    平成12年10月21日〜22日
行   程
10月21日
諫早 ⇒ 呼子港 ⇒ フェリー ⇒ 印通寺港 ⇒ 錦浜 ⇒ 筒城浜 ⇒ 原の辻遺跡・同展示館 ⇒ 安国寺 ⇒ はらほげ地蔵 ⇒ 左京鼻 ⇒ 元寇の役古戦場⇒ 焼酎製造工場見学 ⇒ 民宿(泊り)

10月22日
民宿 ⇒ 岳の辻展望台 ⇒ 塞神社 ⇒ 春一番の塔 ⇒ 東洋一の砲台跡 ⇒ 猿岩 ⇒ 掛木古墳 ⇒ イルカパーク ⇒ 男岳神社の石猿群 ⇒ 印通寺港 ⇒ フェリー ⇒ 呼子港 ⇒ 諫早


呼子港⇔印通寺港航路 今回訪ねた名所古跡


     
  「
はらほげ地蔵」と壱岐特産麦焼酎

肥前の守松浦家の菩提寺として百石の知行寺であったという老松山・安国寺には、目通り六メートル、高さ三十メートル、樹齢おおよそ千年の歴史と共に生きてきた大杉がある。ひっくり返るようにして見上げると首が痛くなった。

ここから小さな漁港まで車を走らせた。『はらほげ地蔵』の意味はその場に行って納得した。『はらほげ』とはお腹に穴があいたという方言で、『お腹に穴があいたお地蔵さん』のことであった。

赤い頭巾に赤い前掛け姿の「はらほげ地蔵」は海にあり、陸地に向かって六体の地蔵さんが仲良く並んでいる。説明板によると、満潮時にはお地蔵さんの胸あたりまで潮が満ちてくる。そのためにお供え物をみぞおち付近に供えたのではないだろうか。遭難した海女の冥福のため、捕らえられたクジラの慰霊のため、あるいは疫病退散祈願のため、といわれているが地蔵は何時、誰が何のために祀ったのかははっきりしないそうである。

運良く干潮でお地蔵さんのそばまで行けた。お地蔵さんの台座の上には赤飯ときんぴらごぼうが供えてあった。満潮になれば魚たちがお裾分けに預かるのか、その前に空を舞うトンビがいただくのかといらぬお節介を焼く私だった。

赤い前掛けを少し捲くりあげ覗いた。胸のみぞおち付近がゴルフボール大にくり抜かれている。そこには賽銭が溢れるように詰まっていた。ぱらぱらっと賽銭が落ちた。私はあわてて拾い元に戻した。



安国寺の大杉。根元に居る人と比べると大きさがわかる。


  干潮時の「はらほげ地蔵さん」

左京鼻、元寇の役古戦場跡は強い北西の風が吹き、大波が飛沫をあげて突き立った岩に打ち寄せていた。一年中同じ方向から吹く風のせいであろう、樹木は南東方向に枝を張って生きのびている。今を盛りのススキは休む暇もなく、やはり東南方向の風に泳いでいた。

第1日目の最後の予定は、壱岐特産麦焼酎の酒蔵見学である。これもIさんが勤務中に知り合いになった醸造元・猿川(さるこうー)伊豆酒造場を特別に案内してもらった。県道沿いに建っているその家は、どこででも見かける田舎の雑貨屋さんといった感じのところだった。住まいと店が一緒になった家のうしろに猿川という幅一間足らずの川がある。水量は少ないが澄んでいて綺麗な流れだ。それを跨いだ裏に別棟の酒造場はあった。農家の物置作業場といった感じの建物で、中に入ってみないとそこが酒造場だとはわからない。

三代目というご主人は五十前後の年配とお見かけした。低い声でゆっくりと製造工程を説明される。明治以来の有名な麹室、カメしこみというおそらく現代では忘れかけられた醸法を伝承しつつ、酒造り一筋に生きる男の意気込みが伝わってくる。出来たてのものは辛く、三、四年寝かしてまろやかな味になってから出荷するのだと聞いてびっくりした。今までなんとなく口にしていた焼酎はこんなにも多くの研究と苦労を経てできたものだったのかと認識を新たにした。

その場で試飲してみると、なるほど喉越しが柔らかく旨い。晩酌用に壜詰めを二本荷造りしてもらった。



   強い北西の風が吹きまくる左京鼻

次回は『民宿』です。

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