南薩摩、知覧・川辺めぐリ(2)

                           旅行月日  平成13年12月7日〜12月9日


               川辺・清水磨崖仏
                     

12月9日

 川辺町流水公園キャンプ場の夜明けは冷え込んだ。開聞岳ふもとのキャンプ場の昨朝とは大きな温度差に感じた。開聞岳の裾野は標高わずか10m足らず、ここのキャンプ地は標高100mはある。その差のせいもあろうが昨夜は雲のない星空で気温が下がったからではないだろうか。

 今回の旅の第一の目的であった『開聞岳登山』は昨日(8日)成し遂げ、今朝は7時まで寝袋に潜り込んでゆっくりした。

 開聞岳から下山したのは8日の14時20分、予定より1時間は遅れていた。すぐ近くにある名物「砂風呂温泉」に入るつもりで楽しみにしていた女性達の望みを振り切って次のキャンプ地へ。日暮れ前にテントを張る予定で川辺町流水公園キャンプ場に急いだのであった。

 開聞岳を背にして国道226号線を枕崎方向に走り、JR指宿・枕崎線の頴娃(えい)駅付近から右に折れ南薩広域農道に乗り、北に進んだ。

 見渡す限りお茶と野菜の畑ががなだらかに続き、この時期は大根の収穫どきで、大根を乾燥させる大きな櫓がいくつも建っている。掛けたばかりでまだ水気の多い大根は真っ白な肌を太陽に反射させ眩しく跳ね返ってくる。乾燥して取り入れ間近かになった櫓からは葉っぱと大根の色が黄色味をおびて柔らかさが伝わってくる。

 この干し大根は、薩摩名物「はりはり漬け」の原料である。私が赴任していたころは指宿の隣町で生産していた「山川漬け」を焼酎の肴に「だれやめ(晩酌)」を楽しんだものだった。

 私にとっては「はりはり漬け」といえば「山川漬け」が真っ先に浮かんでくる。次から次へと展開する干し大根の櫓を眺めながら、カリカリと歯応えのある漬物の味を思い出し、よだれが流れそうになるのをこらえた。

 飯山で南薩広域農道は終わる。ここから県道27号のルート標識を頼りに青戸から知覧に出て、知覧の街を左折し川辺に向った。適当な間隔に案内標識があり迷うこともなく楽な道路であった。

 開聞を出発しておおよそ1時間で川辺町の中心地に着いた。予定より意外に早かった。日暮れのテント張りまでには時間がありそうだ。近くの町営温泉で山登りの汗を流すことに急遽変更した。
 
 砂風呂に未練を残していた女性達もこれでいくらか不満が解消できるだろう。
 山に登るときは2、3日は風呂なしを覚悟しているから、はじめは、入ってもはいらなくてもどちらでもよい、と思っていたが大きな湯船で全身を伸ばしてみるとやはり気分がよい。
 
 日暮れ前のテント設営が頭から離れず、のんびりと湯治気分に浸っているわけにもいかない。家族からは「お父さんの長湯」」と笑われるほど風呂好きであるが、きょうは何時もの三分の一の時間も浸かっていなかった。私にしては「カラスの行水」みたいな落ち着かない風呂だった。

 温泉から10分ぐらいの谷あいが今夜のキャンプ地である。
 街の中心部を流れる広瀬川沿いに遡って行くうちに、もしかしたらあの渓谷ではないかと、何十年も前に一度来た磨崖仏のある渓流を思い浮かべた。しかし、あの当時はまだ川幅も狭く、渓谷も手付かずの荒れるに任せた藪に近いところであった。当然、藪の間から岩肌に刻んだ梵字や仏像の一部分が見えるくらいであまり印象に残っていない。

 キャンプ地では男はテント張り、女性は夕食の準備と手分けして手際よく進めた。
 地元ラリーグラスの仲間が差し入れてくれた、おでん、地酒、焼酎、で夜遅くまでテントの中は賑やかだった。私は酔いと眠気に負けて隣のテントで一足早く横になったが、夜中の日付が変わってもまだ酒宴は続いていたそうである。

 さすが夜更かしした連中は7時の起床時間に目覚めるのは辛そうであったが私はたっぷりと睡眠をとりさわやかな目覚めだった。

 朝食は、レトルトのご飯をお湯で戻し、漬物に味噌汁の定番、それに昨夜の残りのおでんと量にはこと欠かない。ここはゴミはすべて持ち帰りになっている。飲み過ぎて食欲がないという人の分まで各人に割り当て食べさせごみ減量作戦をとった。

 食事が終わってテントの撤収、ゴミ一つ残っていないのを確認したあと磨崖仏見物に出かけた。地元ラリーグラスの二人が案内役である。キャンプ場から5分ばかりの駐車場に車を止め、歩いて橋を渡ると対岸は川に沿って崖っ淵がつながっている。右岸側にその磨崖仏はあった。

 山の形から想像して以前来たのはこの渓谷であったような気がしないでもないが、自信がない。
河川公園として川の流れも石組みも人工的に造りかえられて昔を思い出せる糸口が見つからない。
もちろん当時の藪の多かった川沿いからは川の地形など判るはずもなかったが・・・・。

 薄曇の空から柔らかな冬陽が崖をまともに照らしている。崖は西側に面していて朝陽を浴びて明るかった。

 川下から三角の旗を掲げてガイドさんがが登って来る。そのあとから30〜40人の団体さんが崖を見上げながら歩いてきた。こんなに早く観光客が来るのかと時計を見たら10時近くになっていた。
この様子ではこの清水磨崖仏は薩摩半島の観光ルートに組み込まれているらしい。

 崖に彫り込まれた梵字を見たとき、やっと当時のことが浮かんできた。樹木の繁った樹間に潜むように見えたあの梵字の形である。夏の暑いときであったが薄暗い繁みのなかにセセラギノ音がして湿気の多い空気はひんやりと冷たかった。その冷ややかさと梵字は重なるのである。

 めったに人が尋ねるような場所ではなく、静かで仙人と出会ってもおかしくないような雰囲気のところであった。

 しかし、いま見る梵字はむき出しに全容を現している、あのとき私が見た梵字の数はわずか二文字に過ぎなかったが、まわりの木は伐採され連続的に仏像や線画が続いている。見通しがよく何処までも続く磨崖仏群に圧倒された。

 「懐かしさ」を感じる一方では「初めての場所」だという気持ちが強く、何とも複雑な思いの磨崖仏見学であった。



     清水磨崖仏のある遠景
  流水公園の右の山崖に磨崖仏群は連なる。


 洞窟の中に祀ったお地蔵さんとならんで仏壇 もある。仏壇の産地・川辺らしい風景。


200mぐらい連続しての彫刻群は圧巻である。


     三大宝きょう印塔
もとは「ほうきょういん」というお経を納めていたもの。鎌倉時代からは亡くなった人の供養のために建てられるようになった。
1296年3月13日彫刻されたもの。


   宝きょう印塔(左上の仏像)
       吉田知山作


   十一面観世音(左端)吉田知山作


   大五輪塔(平安時代に彫刻されたもの)


      左の彫刻の説明板
     梵字の説明が右側にある。


阿弥陀仏 吉田知山作
        吉田知山とは

吉田知山(1842〜1898)は旅のお坊さんで、ここ清水磨崖仏を訪れ、明治28年8月に「宝きょう印塔」、十一面観世音、阿弥陀仏の三像を彫刻している。清水磨崖仏は線で彫った彫刻であるが
吉田知山の三像だけが浮き彫りである。

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