木曽路を歩く2

昨夜(5月17日)は木曽福島の温泉宿に泊まり、今朝、小雨降るなか午前8時宿を出発した。
妻籠宿に行く途中、「寝覚めの床」に立ち寄った。
駐車場から急な階段を降りて見物したあと、また急な階段を登って駐車場まで戻ってくる。
この階段の上り下りで一気に眠気が覚めた。よくぞ「寝覚めの床」と言ったものだと納得する。


気になる大釜
妻籠の散策も傘が手放せない空模様である。
朝9時を過ぎたばかりで我々以外の観光客はなく静かな妻籠街道であった。
こんなものが置いてある。はじめは五衛門風呂の釜かと思ったが違っうようだ。
煮炊きをする大釜のようである。製作された年代は分からないが戦時中の鉄の回収を免れた古いものか、終戦後に造られた物かと、江戸時代を偲ぶ街道歩きとは関係ないことが気がかりである。
説明版でもあれば助かるものを・・・。
宿場は城塞の役目もしていたそうで、宿場の出入り口は街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようになっており、これを桝形というとか。
この手前が直角に曲がっていた。

庶民の住居の間取り
説明板によると、これは有形文化財で「下嵯峨屋」。
建造当時は長屋だったものを一戸分だけ解体復元したもの。庶民の住居を代表する片土間ニ間の形式。
とある。
家の中に入って街道を眺めてみた。
いまは展示用のため窓や障子は外してあるが、夏の暑いときなどは、障子を開け放したであろうから旅人の姿がこんな風に見えたであろう。
庶民には畳はなかったらしい。板張りだけの部屋だった。右端が土間。
囲炉裏はあるが冬は深々と冷たさが忍び寄ってくる感じである。
昔の農家はどこも広い土間がありった。このような造りを見ると田舎を思い出す。
この階段、当時のままかどうかは分からないが舗装されていないので昔の風情を一番感じる場所であった。
草鞋を履いて着物の裾を腰帯にからげ足早に走る飛脚の姿が浮かんでくる。

街道の石段

馬籠への道
妻籠宿を散策のあと10時30分いよいよ馬籠峠へ出発する。
小雨に打たれた新緑が一際生き生きとしていた。
街道の右下は川で沢を流れる水音がにぎやかだ。
この水は、木曽川を下り太平洋に注ぐことになる。
この梅雨時、東海道は大井川の増水で敬遠され、中山道を利用する旅人が多く賑わったのではないだろうか。
橋を渡ると向こう岸に水車小屋があった。古い建物ではないが屋根に石を載せてあるのが珍しい。
この街道筋で時々見かけた屋根の造りである。
何らかの意味がありそうだが一行の誰も知らなかった。
九州ではあまり見かけない風景でおもしろい。
妻籠宿を発ってから30分。街道は曲がりくねって登り坂が続く。当時のままではないらしいが石が敷き詰められて歩きやすい。
両脇の木々は茂り深い山の中へ分け入って行く。
妻籠宿を出発して1時間。崖下の沢に来た。
そこに案内板があった。吉川英治作「宮本武蔵」の舞台となった「滝」と書いてある。
この滝壺で落水に打たれ、お通への思慕を断ち切り、剣の修行へと旅立った所だという。
この辺りはたびたびがけ崩れが発生するところのようで沢を横切る路は荒れている。少し離れたところにも滝はあった。これは「女滝」と名付けられている。
沢を横切り、急な斜面の山を登って尾根に上がった。
そこは2車線の舗装された県道らしきものがあった。
空想の世界から一気に現実に戻された瞬間である。舗装された二車線道路をしばらく歩き、道路と平行して流れている右側の川を渡った。この橋は街道へ通じる木造のひと一人がやっと通れる狭いものである。

男滝

天狗が腰掛けたという「さわらの巨木」
かなり標高が高いところまで登り詰めた感じだが登りはまだまだ続く。
巨木が見えてきた。ここには木曾森林管理署の説明板が建ててあった。
それによると『樹齢約300年、幹周り5.5m。樹の名前は「さわら」。この樹は耐水性が強く風呂桶、壁板に使われる。この樹一本で風呂桶300個が作れる。

この樹のように幹から枝が出て上に伸びている樹を神居木(かもいぎ)といい、昔から神(または天狗)が腰掛けて休む場所であったと信じられていた。この樹のように両方に枝が出た樹を「両神居」という』
この枝に天狗が腰掛けている姿を空想してみると、なるほどと納得できる枝振りである。
皇女和宮が江戸へお輿入れされた長い行列をこの「さわら」は眺めていたに違いない。
われわれの一行はこの樹に興味はないのか先へ先へと登ってしまい一人取り残されてしまった。足早に後を追いかけた。
この老松が江戸時代の風情を演出している。古い建物と老松の取り合わせが何ともいいがたい。このような景色を頭に描いて今度の木曽路歩きに参加したのだった。ここに来て思いが叶えられた感じである。
立場茶屋というのは、宿と宿の中間にある茶屋で、ここ一石栃は妻後宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒の茶屋があったが現在は江戸時代後半の建物であるこの一軒だけが残っているとのこと。

一石栃の立場茶屋

一石栃の白木改番所跡
立場茶屋と隣り合わせに「一石栃の白木改番所跡」はあった。この番所は木曾から移出される木材を取り締まる所で、ヒノキの小枝一本まで刻印が焼いてあるかどうかを調べる厳しい番所であったという。いわば尾張藩の税関といった所か・・・。

時は12時。ここで昼食の号令がかかる。
この付近は公園化され東屋もあり、ベンチに腰掛け弁当を開く。弁当は昨夜の宿で造ってくれたおにぎりである。山菜の添え物がついており、あっさりとして美味しい。
初日、奈良井宿で食べた冷凍尽くしの弁当とは大違いであった。
この付近は棚田があったらしく、耕作を放棄された藪の中から蛙の鳴き声が聞こえてくる。その声を聴きながらのんびりと食べるおにぎりが何とうまいことか。
同行のHさんから即席の味噌汁を頂いた。暖かい汁物の差し入れで贅沢な昼食となった。昔の旅人も味噌を持参して熱いお湯を貰い味噌汁を造っていただろうか。
馬籠峠の峠の茶屋は県道の拓けた場所にあった。ここはバスツアーで簡単に来られる場所にあり店はお土産がたくさん並べてある。店から少し離れた藪の中に、ひっそりと峠を示す石碑が建っていた。
正岡子規の「白雲や青葉若葉の三十里」の句が刻み込まれていた。
 
店の買い物に心を奪われていると見損なってしまいそうだ。
ここからは下りになる。数年前まで長野県だった馬籠付近は、平成の市町村大合併で岐阜県・中津川市と一緒になり話題をまいたところである。この峠付近が岐阜・長野の県境となっている。

峠の茶屋と石碑

数百年の歴史を感じる民宿「桔梗屋」
峠を10分ぐらい下ると集落がある。
江戸時代には有名だった峠の集落であり、1762年の大火でほぼ全焼したが、その後は火災もなく、江戸中期以降の建築が残っている。
最盛期には民宿が7軒あったそうだが、現在は1〜2軒くらいしか見かけなかった。数百年の歴史を感じる「桔梗屋」は現在も民宿の看板があり営業中であった。
この集落の人は、江戸時代には、牛方を稼業にして、美濃の今渡から信濃の善光寺辺りまで荷を運んだという。
牛は「岡船」といわれ、陸路輸送の中心的な存在だった、ということである。
下り続けていた道が登りに変わり、歩くこと5、6分で頂上に達し視界が一気に広がる。少し左側に恵那山が見えるはずであった。しかし、ご覧のとおり雲に覆われている。鳥居峠では期待した御嶽山も雲で見えなかった。両方とも見ることができず残念である。


雲に覆われた恵那山

馬籠宿の賑わい
妻籠宿から馬籠宿まで歩きとおした。所要時間3時間である。
もし大名行列ならば「下にぃ〜下にぃ〜」と仰々しく宿場入りするところだろう。
しかし、我々一行は、宿場入り口で自由散策となり解散する。
あの仰々しい大名行列は、全行程でやっていたわけではないらしい。ガイドさんの説によると、宿場以外の山の中では殿様を始め一行全員が尻をからげ走って歩いたという。あんな仰々しいことをしていたら時間がかかり道中の費用が嵩み藩の財政が持たなかったからだ。
藩の懐を預かる家老が頭を絞って節約に努めた方法で宿場近くになって大名の威厳を保つために「下にぃ〜下にぃ〜」のセレモニーをやったとのこと。笑い話のようでもあるが現実味もあって面白い。幕府の狙いは参勤交代で散在させ兵力を増大させないための制度であったともいわれているから、ガイドさんの説に納得できる部分もある。
馬籠宿散策は13時20分から14時まで。馬籠は観光化され古い建物を見る所は少ない。時間をかけ藤村記念館を観るつもりだったが40分では時間不足のようである。記念館にはいり休憩所備え付けのビデオを見る。これだけで20分使ってしまった。藤村の原稿展示箇所以外はただ通過しただけだった。団体行動は自分が見たいところで時間をかけられないのが玉に瑕。安いツアーだから仕方がないか。
有名作家の原稿を見るのは楽しみである。筆跡、原稿用紙の使い方、推敲の仕方それぞれに特徴があり、活字になった作品からは知ることのできない作家の性格を勝手に想像できるから・・・。
自筆で原稿用紙に書く現在の作家は少なくなっていると聞く。時が過ぎ、現在若手の有名作家が使ったパソコンやCDを陳列したとしても、どれも画一的で興味も湧かないし、作家の性格まで想像するかとはできないだろうと、思いながら記念館を後にした。
集合時間前、みんなが五平餅を食べているので付き合いで買うことにした。焼き上がるのを待って買う状況で受け取った五平餅はこんがりと焼き上がっていない。少し焼き過ぎのぱりぱりに焦げた五平餅が食べたかった。
14時。待機していたバスに乗り込み、2日間に亘る木曽路を歩く旅は終わった。バスに揺られること4時間でフェリーが待つ大阪南港へ着く予定。

夜明け前の原稿
終わってみれば、小雨降る「木曽路」であった。冬枯れの山の中と違って新緑の山はかえって雨が瑞々しく惹きたててくれた。
「時の流れを遡り、はるか昔へ旅してみたい」、この思いは奈良井の家並みで、また妻籠の宿場街で、一石栃の立場茶屋で感じることができた。
江戸時代の旅人の心境には生活環境の違いから近寄れなかったように思う。草鞋がウォーキングシューズとなり、雨合羽は通気性に富んだ合成繊維の雨衣に、と当時では想像もつかない贅沢な装備からは旅の辛さは生まれてこなかった。
しかし、日常のしがらみを忘れ、気持ちだけは「木曾路の旅人」になれた二日間であった。

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