イタリア旅行記

第9回 ポンペイ遺跡
 紀元79年8月、ベスビオ火山の噴火で、ポンペイの街は一夜にして滅びました。その後その遺物が発見されるまでに1600年の月日が過ぎました。本格的に発掘されたのはそれからまた150年後だそうです。現在,その約8割が発掘されているといことです。
 2000年前のローマ帝国華やかなりしころの市民の生活が、そのまま発掘されたポンペイの遺跡は他の遺跡とは違った生活の匂いが漂う遺産です。
 市民生活の一端を感じ取っていただければ幸いですが・・・・。


ガイドさんの説明によると、ここは当時のメーンストリートだそうです。今日も観光客で賑っていました。
当時と違うのは荷馬車が通っていた車道を今は観光客が歩いていることです。
両脇に歩道があるのには驚きました。現在の道路つくりの原点はここにあるのかもしれませんね。
アップ写真で全体像がわかりませんが、左右に伸びているのは縁石です。
手前は荷馬車が通る車道側、写真上部は歩道で一段と高くなっています。
縁石をくり抜いた穴は、馬の手綱を括りつけておくためのものだそうです。
括りつけられた馬を想像するだけでも楽しいものです。
ミイラです。ガラス容器に入れたミイラが二体展示してありました、と書いてしまいましたが、これはミイラではありません。
堅い火山レキの中にできた生物体腐食後の空間に石膏を流し込んで型をとった人間の石膏体だそうです。
見物している現代人と比べて見てください。体格は現代人よりも大きいくらいです。
ベスビオ大噴火の犠牲者です。
ここは公衆浴場の内部です。
壁に彫刻が並んでいます。彫刻と彫刻の間が脱いだ衣服を置く棚になっているそうです。
棚は観光客の頭の上にあり、これでは子供はとても届きませんね。
ここも公衆浴場の一部です。直径2mぐらいの石の器で、深さは30センチぐらいです。
温水で手や顔を洗う大きな洗面器といったところでしょう。
この反対側(画像の手前)に湯船があります。
車道は石畳になっています。両脇の歩道はそのままの地肌です。
石畳に縦長の凹みが二本あります。これは荷馬車の車輪のわだちぼれだそうです。
いまでも農道や林道にはわだちぼれを見かけます。
わだちぼれの巾は違いますが今も昔も変わらない風景です。
傘の上の壁をご覧ください。
原爆で焼けただれたレンガ模様に私は見えましたが、ガイドさんの説明は意外でした。
入口の真上の彫刻みたいなものは男性のシンボルを表しているそうです。少し抽象的?で判断がつきにくいですね。
ここは娼婦の家で商標(屋号)だそうです。
車道の石畳には、ここに辿り着くまでの道順を男のシンボルで形造った石を埋め込んであるそうです。
残念ながら見落しました。
現在の道路標識(案内標識)の原点でしょうか?
ユーモアのある街でした。
ここはパン屋さん、いまのパン工場に匹敵する大掛かりなものです。
写真はパンを焼くかまどです。
このころから分業化して生活していたのでしょうか。
かまどの周りには小麦を粉にするひき臼などがありました。
セリーノにあるアウグストゥス帝が建設した水道をポンペイまで導いてきて、浴場、給水場を造りました。

通りの側道のあちこちにある水道井です。水槽の底が地下の水道配水路につながっています。
早くから水道配管が完備された都市で、一般の住民はここから汲み、裕福な家では家庭まで水道管を導いていたそうです。
発掘された生活用品を収納した倉庫です。
ここに入って見物するお客はいませんでした。
特別興味がある人か考古学者でないと、ここで時間を潰すのはもったいないのでしょう。
私も外から写真を撮っただけですぐ次に移りました。
ガイドさんの案内コースには含まれてなく足早に通り過ぎました。迷子にならないよう後を付けるのが大変だし、ガイドさんから離れると説明が聴けないので懸命にあとを追いました。
フォロ広場の日時計
2000年も前からあったとは驚きです。
日時計を考案した人も偉いですが、すでに生活の中に時間の観念が広まっていたのかと思うとびっくりします。
大和の国は弥生時代ですから、わが国でも時間の観念はあったのだろうかと考えさせれます。

うしろに見える山はこの街を一瞬にして死の街にしたベスビオです。

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