舞 鶴 へ

平成15年11月22日

  茨木市のホテルを出発したのは午前10時前であった。
 迎えに来た息子夫婦の車に乗り込んでから、今日の予定を打ち合わせるという漫然とした出発である。

  事前の打ち合わせでは、今日は丹後半島の伊根の船屋、翌日丹後の出石の城下町を観光することだけは決めておいた。今回の旅行は急な思いつきで、案内役に廻る息子夫婦は慌てたようだ。宮津に一泊したいという私達夫婦の希望を叶えるために宿を探したが、時すでに遅し、何処も満員で断わられたという。

あるホテルでは今ごろになって宿を探すなんて、と嘲笑の返事が返ってきたそうである。それもそうだろう。今年最後の三連休で観光シーズンであったから。このような経緯があって、今夜の宿は宮津の隣町岩滝町の民宿である。宿泊のランク落ちの補いは、カニ料理をフルコースで特別注文しておいたからと喜ばせてくれた。

今日の予定は伊根の船屋と天橋立見物。今夜の宿泊地をベースにすると、2箇所だけでは時間が余りすぎる。時間つぶしにどこか行ってみたい所はないかとの話に、それでは舞鶴の引揚げ桟橋を見に行こうということになった。

大阪から中国自動車道、舞鶴若狭自動車道、国道27号で約1時間半。舞鶴に11時半に着く計算になる。

中国自動車道に乗ると渋滞でなかなか前に進まない。舞鶴若狭自動車道になって高速道の持ち味が出た。丹後・丹波の山地を抜ける間、黄色に色付いた山々が次から次へと展開して予期せぬ秋の景色も楽しんだ。

大阪を出るとき快晴であった空も、山脈を越えると時雨になったかと思えば、また晴れたりと目まぐるしく変わった。これが山陰地方に入った証かもしれないと思いながら眺めていた。

舞鶴引揚記念館に着いたのは予定より半時間遅れの12時になっていた。
 4、5人の入館者が居るだけでひっそりとしていた。

    
舞鶴引揚記念館は、昭和63年、引き揚げの史実を後世に語り継ぐ目的で設置されている。
常設展示室で最初に見に付いたのがこの『赤紙』。いわゆる召集令状である。この紙切れ一枚で私の父も二等兵卒として出征した。そのとき私は小学4年生。この赤紙を見た記憶は残っていない。
赤紙というからもっと赤いかと思ったら薄桃色の紙だった。風化して色あせているのだろうか。
極寒のシベリア抑留生活で、長くつらい日々を送った旧ソ連・ラーゲリ(収容所)などでの抑留生活の様子を伝える展示物。
そのなかの一つ。収容所の柵(支柱)の断片。
常設展示1には、引き揚げまでの辛く悲しい抑留生活のすべて。
常設展示2には、祖国へ今、帰る。再会の町・舞鶴の当時の出来事。
常設展示3には、引揚げに功績の人々を偲ぶ。そして平和の祈りは次の世代へ。
とテーマを分け展示してあったがどのコーナーも重苦しい気持ちで見て廻った。

 戦争を知らない世代の増加と共に戦争の悲劇、悲惨な引揚げの史実が過去のものとして年々遠ざかりつつあるなか、あらためて平和の尊さを噛み締めたひと時であった。
 しかし、いま日本は友好国とのしがらみで同じツテを踏みそうな気配がしてならない。
 休憩・喫茶コーナーで温かいうどんを注文した。昼食の後、車で10分足らずの引揚げ桟橋へ移動した。外は時雨の通り過ぎたあとで駐車場も植え込みも濡れていた。

“母は来ました、今日も来た”「岸壁の母」の歌とともに全国に知られた桟橋跡。

 昭和20年10月7日に引揚第1船「雲仙丸」が舞鶴に入港して以来、13年にわたり、66万人以上の引揚者と1万6千柱のの遺骨を迎え入れ、多くの喜びと悲しみのドラマが生まれた桟橋。今は改修され当時のものはない。

 私は桟橋の突端に立って舞鶴湾を眺め岸壁の母の歌を口すさんだ。
幸いにして肉親にこの辛苦を味わった者はいない。私の思いは当事者達からすればほんのわずかな感傷に過ぎないことを知りながら・・・。
舞鶴引揚記念館の観覧券は舞鶴市立赤れんが博物館の共通券になっていた。
れんが博物館があることさえ知らなかったが宮津に戻る帰り道ではあるし立ち寄ってみることにした。

舞鶴市立赤れんが博物館。
赤れんが博物館の建物は、1903(明治36)年に建設されたもので、建設当初は旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として使用されていたそうである。
れんがの歴史は、今から一万年前にもさかのぼり、古代のエジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明、四大文明発祥の地でもれんがは使用されてきたそうである。
この博物館では、そんな世界のれんがを紹介しながら、れんがが歴史にいかに関わってきたかを知ることができとパンフレットに紹介している。
本格的な鉄骨構造のれんが建築物としては、わが国に現存する最古級のものとされている。
画像は一階から二階に上がる階段付近の壁。
鉄骨に積まれているれんがとステンドグラスの窓、階段の照明が何ともいえない雰囲気をかもし出していた。
ホフマン式輪窯シアター。
 れんがの歴史から作り方などをモニタと音声ガイダンスで説明してくれる。
れんがのいろいろ

ヒンズー教寺院のれんが(複製)
れんがのいろいろ

南北朝時代の獅子のれんが
れんがのいろいろ

力士れんが
れんがのいろいろ

仏像浮彫れんが
 サン・ピエトロ大聖堂のれんが、ローマのれんが、エジプトやメソポタミア、万里の長城のれんがに始まり、天平時代のれんが、ベルリンの壁のれんが、鉄道に使われたれんが等、あらゆるれんがが展示されていた。
 ヒロシマ、ナガサキの被爆れんが、アウシュビッツの壁のれんが等、思い出したくない歴史のあるれんがもあった。
 れんがは豆腐のように単純な形だと決め付けて、たいした事もなかろうとタカを括って入場したが、一万年前にもさかのぼる歴史と芸術作品の多さに魅せられて時間の経つのも忘れてしまった。
 れんが博物館を出るとき午後3時を過ぎようとしていた。
もう今日は丹後半島の伊根の船屋まで行く時間はない。天橋立観光で終わりにしよう。

トップへ          旅日記へ戻る