青と緋の記憶 

『青と緋』の色は私が小学校5年生の年に見た、忘れられない生活の色である。

地球上で勝手気ままな振舞いをしている人間がいまだに手出しできないで怯えているものの一つに台風がある。

今年もすでに16号まで発生したが9月からは日本に上陸する台風が多く目が離せない。

気象学の進歩で台風発生、進路予想など事前予知が可能になり、被害を最小限に食い止められるようになった。

しかし、世界第二次大戦中の気象情報は軍事機密で一般市民には知らされなかった。国民は長老たちの経験と感で台風の進路を予知し対策を立てていたようである。

『二百十日』といえば『台風が来る日だ』と子供のころは思い込んでいた。確率的に正月から数えて210日ごろに日本へ上陸する回数が一番多かったからだろう。

世界第二次大戦(太平洋戦争とも言っていた)に日本が負けた年(1945年)の夏の終わりに、大きな台風が私の住んでいる佐賀県を通過していった。

 茅葺きの家は風にあおられ萱が飛散し、雨漏りがはじまった。瞬間的に強い風が吹くたびに家はきしみ異様な音を発した。そのきしむ音は、家が泣いているようで心細くもあり、恐ろしくもあった。

徴兵にとられた父は、戦争は終わったがまだ帰っていなかった。頼りになるのは祖父一人、母と子供6人はタライ、バケツに落ちる雫の音、悲鳴をあげる家のきしみを一晩中聞きながら暗い一夜を過ごした。夜が明けても風雨は止まず昼過ぎに台風は通り過ぎたと記憶している。

風が収まった昼過ぎ、家に潜んでいた大人達は外に出て家の周りや隣近所の様子を見て回った。私も祖父の後に付いて外に出た。一番気になっていた屋根を見上げると萱がめくられ穴があいていた。祖父一人の手では、今すぐ屋根に登り繕うことはできなかったのかそのままにして、隣近所の様子を見て歩きながら、いつも大人たちが集まる場所に祖父は向った。

右隣の家には大きな柿の木が二本あった。その柿の木の下まで来ると広い庭一面が柿の葉っぱと落ちた柿の実で覆われていた。いつも褐色にしている庭の変わりように目を見張った。青い柿の葉っぱに青い柿、青一色の庭を新鮮に感じ、絵画ではなく現実のものとして青の美しさに魅せられた。

被害の大きさを嘆き心配している大人たち、目の前の風景に感動している子供の私、扶養する立場の大人の責任感と、扶養されている子供の気楽さが同じ状況におかれても違っていた。

大人たちは台風の様子を語り合っていたが、しばらくすると話題は戦争に負けた後の行く末の心配に移っていた。

それもそのはず、戦争が終わってひと月が過ぎたばかりで、新聞やラジオの情報よりも、身近で現実味を帯びている流言蜚語を村人たちは口伝え、その噂を信用した。

一ヶ月が過ぎても、まだ私が住んでいる山の中まで外国の兵隊は一度も顔は見せなかった。

長崎や佐世保にはすでに上陸しているから近いうちにここまでやって来る。土足で家に入り、金品を奪い、食料、家畜なども取り上げ、男は皆殺しになる。などなど恐ろしい噂ばかりが続いていた。

 台風が過ぎ去った数日後、家族の誰が言い出したか覚えていないが、

「池に飼っている鯉を兵隊に取られる前に食べよう」

 と言い出した。用水路から水を導き、洗い場の横に二坪ほどの小さな池があった。観賞用の鯉を飼育する池ではなく、家庭で食べる鯉を飼っていた。

その池には川で捕まえてきた緋鯉も数匹混じっている。鯉は大きいもので50センチ、緋鯉は30センチぐらいであわせて10尾ぐらいだった。

鯉の味噌汁を作ることに決まった。池に入って魚を捕まえるのは私と弟の役目になった。

8人家族の胃袋を満たすには、一尾だけでは足りない。行く末の分からない世の中のこと、「自棄喰い」か「喰い納め」に似た心境であったのか、大小あわせて4,5尾も捕まえた。そのなかには緋鯉も混じっていた。

黒い鯉はこれまで何回か食べたことがあるが緋鯉は観賞用という先入観があって食べたことはなかった。

美しい緋鯉を敵の兵隊に取られたくないという思いからなのか、食べたことがない緋鯉を一度は食べておきたいという心理が働いたのかは、今は当時のことはわからない。

料理は祖父がした。周りに子供は集まりさばかれる鯉を見つめた。

 緋色の鯉は包丁でうろこを逆なでするとあたり一面に飛び散った。さばかれる鯉が可哀想と思う気持ちは忘れ、花火のように飛び散る金色緋色のうろこの美しさに見惚れた。

出来上がった鯉の味噌汁は大きな鍋いっぱいで、翌朝も昼も食べたような気がする。美しい緋鯉は身が柔らかく豆腐を食べているようで美味しくなかった。

やはり緋鯉は食べるものではなく眺めるものだと子供心に思った。

後にも先にも緋鯉を食べたのはこのときだけで、その後は食べていない。

戦争に負け、外国の兵隊がやって来て乱暴するという恐怖感より、青い庭と緋色のうろこがこれほどまでに印象強く残っているのはどうしてだろうか。

あのときの台風は、57年前の今日(9月17日)襲い『枕崎台風』と名付けられたことを知ったのは、大人になってからだった。

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