顔のない人形

 久し振りで長崎に出かけた。昼になって食堂街を一巡し、『飛騨の高山ラーメン』を食べることにした。

長崎に出かけたときにはいつも昼食は「ちゃんぽん」が決まりのようになっていた。しかし、今日はあっさりしたものを食べてみたい。

どちらかと言えば、九州のラーメンは脂を使ったものが多い。あっさりしたものが欲しいと言いながら「ラーメン」を食べるのかと思われるかもしれないが、高山ラーメンは和風でさっぱりした味だとショウウインドに張り紙がしていたからである。

飛騨高山といえば、こんな想い出がある。

去年北アルプスに登った帰り、高山市内を見物した。昼の時間になってみんなが蕎麦を食べたいと言いだした。

古風な店構えの蕎麦屋さんにはいりこんで、わたしは『山菜そば』を注文した。ところが運ばれてきたのは普通の蕎麦だった。7人がそれぞれのものを注文したので間違ってしまったらしい。

店主に出来上がった普通の蕎麦の上に山菜を載せてくれるように云ったら「だしの取り方から違うからそれはできない」と断られた。

 そんな経緯があって何となく「高山」と言う言葉に心惹かれるところがあった

料理が出てくるまでの時間待ちに、お冷やを飲みながら箸袋に書かれた「さるぼぼ」のいわれを読んだ。

平安時代の宮中で安産のお守りとされた天児(あまがつ)人形が、長い年月を経て庶民に伝わり子供のおもちゃや、お守りとして広がったのが「さるぼぼ」といわれています。「ぼぼ」とは飛騨語で赤ちゃんのこと。赤い布で作り、猿の赤ちゃんに似ていることから「さるぼぼ」の名前がついたのでしょう、とある。

次にテーブルに備え付けてある『ミニかわら版』を手にとった。飛騨高山の風土や民芸を紹介したものである。そのなかにも「さるぼぼ」のことが書いてある。

「さるぼぼ」には顔がない。それはきっとその時々に「さるぼぼ」を通じて自分の気持ちが写るようにするためではないか。嬉しいときには笑っているように、悲しいときには泣いているように・・・。

その日その日で違った表情が感じられる「顔のないさるぼぼ」は顔があるよりも、ずっと創造性を持った人形である・・・・。

なーるほど、高山にはこんな民芸品があったのか。感心しながら古い町並みを思い出していると、湯気の立つラーメンが運ばれてきた。

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