金毘羅岳(263.1m)からの眺め(1)

               H14・5・12 快晴

今日は、第四回諫江八十八ヵ所巡拝の日であった。

平成12年秋に始まった『諫江八十八ヵ所巡拝・弘法大師の修行に学ぶ遍路体験』には春秋ごと参加してきたがこれで四回になる。

主催者の諫早自然保護協会から毎回いただく案内状によると『諫早12代領主茂洪公が文政8(1825)年に、四国八十八ヵ所霊場になぞらえて諫早領内に諫江八十八ヵ所霊場を勧請されました』とあるとおり、諫江八十八ヵ所霊場は旧諫早領内のあちこちに勧請された札所である。

今日は、49番札所を打ち始めに、50番札所・金毘羅岳上宮の山越えをして6札所を巡拝することになっている。

ここ二週間ばかりナタネ梅雨のような日が続いていたが、指定された9時に島鉄・小野本町駅広場に集まるころには晴れあがり久しぶりの春陽が眩しかった。


出発前のミーチング

有明海、諫早平野と遮るもののない平坦なところから吹いて来た北風は冷たく、出発前の説明を聞いている間寒かった。強い風に帽子を吹き飛ばされる者もあった。

説明のあと、国道57号を横切り、まもなくして小野の天満宮に着いた。鳥居をくぐり右手の一段高いところに若宮八幡宮、六地蔵群、49番札所が祀ってある。天満宮の境内は広いのにもかかわらず、この三つは寄り添うようにくっつきあって隅っこで遠慮してござる。

自然保護協会の会長さんは、信仰の篤い方で、すでに歩き遍路で四国八十八ヶ所を結願されている。作法に従って灯明、線香をあげた後、その会長さんの先達で一同般若心経をあげる。


49番札所

その後、史談会の先生から六地蔵群の故事来歴を聞いた。小野の六地蔵石幢群6基のうち4基がここにあり、天文期(1532〜54)に建立された佐賀型重制と呼ばれるものだそうで、戦乱の世相を物語っているとのことであった。

天満宮を出て古い家と近代的住宅が混在する狭い通りを歩いて登り始める。集落がきれ、いよいよ登り道になってきた。舗装された道から右側ののり面を階段状にした足場を伝って山道にはいる。

しばらくして舗装された道に出た。登山道はほぼ直進する形で続いており、舗装された道は左右に迂回しながら登っているらしく、山頂に着くまでに何回か舗装道路と交差した。



山道を登る途中、振り返って見れば五ヶ原岳と諫早平野が望める

九合目付近に『松尾社』はあった。山道を歩きだしてから20分は登って来たであろう。

ここまでの道程は、薮あり、ガレ場ありで普段は歩く人がいないのか、けっこう荒れていて登りにくかった。今日の参加者は40名ばかり、年齢巾も歩く装備もまちまちで、楽に登る者、苦労しながら息が切れる者と千差万別である。

ザックをおろし、座り込んで水を飲む者もいた。史談会の先生は70歳半ばと聞いているが元気である。みんなが登り着いたのを確かめると「皆さん休んだままで聞いてください」とさっそく『松尾社』の由来を話しはじめられた。

『松尾社』は文化6年(1809)の創建で京都の松尾大社の分神を祭ってあり、酒造業の神として尊崇されている。境内の左端にある燈篭の灯は文化5年(1808)の創建で、その昔千々石湾を有喜に入港する漁民の目印になった。などの説明があった。


大石の燈篭

社殿は近年建て替えられていて新しかった。漁民の灯台代りになったという燈篭は、身の丈三倍もありそうな大石の燈篭で、灯台としての役目も果たしていたことが伺える。しかし、いまは樹木が覆い被さり静かに隠とんしている姿であった。

休憩の後、山頂に向って歩き始める。右の山腹を回り込むようにして平らな道を進み一旦降り坂にさしかかると左側に松尾芭蕉の句碑が建っていた。

陽の当たらない薄暗いところで碑は苔むし文字は判読しにくいが微かに読み取れる。事前に配られた資料と見比べながら、

『 初しぐれ 猿も小蓑をほしげなり
          文化十年癸酉 時雨月 吉日
              洞雲斎 弧月  敬立 』

の文字を確かめた。文化、文政のころは、諫早地方も句会が盛んに行われていたとみえて、こんな句碑があちこちに建っているそうである。

金毘羅岳の山頂はすぐ目の前に迫っていた。
                                        (つづく)

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