新春の長崎街道を歩く

家の中に閉じこもってばかりいると気が滅入ってしまう。
 元旦は、明け方雷鳴が響き小雨模様の出だしであった。その後の正月三が日は、強風に時折雪が舞うすっきりしない日が続いた。

冬には珍しく雲ひとつないポカポカ陽気になったのは五日である。
『小春日和』という表現は年末までで、歳を越すと『春うらら』と言うとか、つい最近テレビで話していたような記憶がある。年が変わったばかりの初めての陽気だから、この陽気を『春うらら』と呼ぶのだろう。

この四日間の鬱積した気分を発散させるには絶好の日和である。朝から外に飛び出したかったが町内会の仕事で、どうしても午前中は家のなかで用事を済まさなければならなかった。

昼食が終わるとリュックに水筒、飴玉、タオル、小銭入れ、ナイフ、などいつもの携帯用品を詰め込んで家を出た。日が暮れるまでに戻るには、そう遠くまではいけない。風観岳(236m)まで登りその先はそのときの気分次第で決めることにして、北の方向へ歩いた。

右手遠くには多良岳山系の五ヶ原岳(1057m)が褐色に聳えている。ここから吹き降ろす北東の風は冷たく耳が痛い。軍手をした手で両耳を擦りながら風を遮る林まで急いだ。

ポカポカ陽気だと思ったのは、ガラス越しに差し込んで来た陽が部屋を暖めていたからで、外気に当たると気温は低い。

舗装された里道が切れたところに御影石で作った『旧長崎街道』の道標が建っている。ここからは土と岩の露出した山道で、江戸参府の時代を偲ばせる風情が残る道に変わる。

 長崎街道は東海道、中国路を経由して江戸と長崎を結ぶ街道で、九州への入り口である小倉から長崎に至る九州でもっとも重要な街道であった。

これから私が歩こうとする街道は、長崎街道の一部で地元では通称「大村街道」とよび、鈴田峠を中心におおよそ東西1.5キロメートルの区間である。

土の道を五分ぐらい登ると大村街道の説明板がある。立ち止まって読んだ。
説明板によると、シーボルトがここを通ったときの様子を書いた記録の一部が紹介してある。この説明板には書いてないが、坂本竜馬、勝海舟、などの維新の志士たちも、遠山の金さんも通っている。
 
 またインドから長崎港に着いた象は、この長崎街道をノッソノッソと歩いて江戸まで行ったというから歴史は面白い。

このほか長崎奉行をはじめ幕府の役人や諸大名、出島オランダ商館長、全国各地の商人や学者、文人など様々な人が行き来し、日本の政治・経済・文化に大きく貢献し、新しい日本を生み出す原動力となった街道である。  

概略地図 落ち葉に埋まった大村街道

いつのまにか昔にタイムスリップした気分になって再び登り始めた。

冬樹が落とした枯葉が街道を覆い、ガサガサと一歩ごとに付きまとって何処までも落ち葉の音がお供をする。

樹林の中の北風は幾分弱くなったが、いままで背中を暖めていた陽が陰り、全身が冷えてくる。歩き続けて体温を暖めるしかない。脈拍があがるのを感じながらスピードをあげた。

この坂を「籠かきたち」も私のように息を弾ませながら、大名やお姫様、幕府の役人を運んだに違いない。自分の荒い息づかいが、籠かきや人足たちのもののように思えてきた。

 しばらく行くと、桃が割れたように開いている大きな岩石がある。わたしはどう見ても桃が割れて、中から桃太郎が出てきそうな想像をしてしまうが、もとは片方の石にくっついていて妊婦のお腹(どんばら)のように突き出していたそうで、土地の人は『どんばら石』と名付けているそうである。

ここからさらに200mほど登ると『大渡野番所跡』がある。

どんばら石 大渡野番所跡

藩境の通行人を見張る関所で、街道を挟んで前の広場が、手形改めの順番を待つ人たちの待機場所であったとか。現在は石積みの跡がわずかに残るだけになっている。

北側の斜面から吹き上げる風は竹林を揺さぶり、私を驚かせた。竹でも切っているような高い音がするので立ち止まって辺りを見渡すが人影は見当たらない。これが夜だと恐ろしくて逃げだしたに違いない。

行く手に軽のワゴン車が止まっている。くぼみに入り込んだ前輪の下に石を詰めている中年の男性は、私が近づくとその手を休め、

「これから先、この車は通れますか」と尋ねた。
わたしは、岩の露出した凸凹道で車はとても通れるような道ではない、方向変換して引き返した方が良かろう進言した。

 引き返すにしても、はまり込んだ車輪をくぼみから脱出しなければならない。二人で車をがぶりながら隙間に小石を投げ込み、やっと自力で動けるようになった。バックしながら300mほど戻った。ここが大村街道の峠の頂点になる。十字路になっていて、ここで彼は方向変換した。

 彼は丁寧にお礼を述べ、この先車に乗りませんかと言ってくれたが、行く先が違うからと断った。車は大村方向に戻っていった。

   大村街道・鈴田峠
左は大村へ、右は諫早へ、直進すると風観岳へ行く。中央の石が「硯石」。
軽ワゴン車はこの写真の左側の道へ戻って行った。

私は再び一人になり、四辻に建っている「硯石」の説明板を読んだ。

『この硯石は 佐賀藩諫早領と大村藩の境、現在、大村市と諫早市の境になる位置にある。

弁慶の足型石・鬼の足型石などとも言われ、この巨石を藩境石としていた。昔は、この脇に「従是東佐嘉領」と刻んだ領境石が建っていたが、現在、領境石は風頭岳山頂に移築され,「遥拝石」と刻みなおして建っている。』

 読み終わって、さてこれからどちらの方向に行こうかと迷った。ここまでは予定の行動だったが、車騒動に巻き込まれ考える暇がなかった。

 頂上まで来たが身体は温まっていない。右折して風観岳に登っても、直進して大村方向に下っても木陰続きで寒そうである。左折して南に歩けば山の頂上まで開墾されたミカン園が開けている。とにかく太陽が恋しい。

 大村街道をそれて、四辻から5分ぐらいでミカン園に出た。南の斜面は陽が降り注ぐ明るい段々畑である。大村街道を登りはじめておおよそ50分、視界の開けない樹林の中だっただけに太陽がまぶしかった。

 南の視界には、工事続行か、工事中止・水門開放かで社会問題になっている諫早干拓が左端に見える。その右には平成新山が雪化粧をして干拓問題の推移を見守っているようだ。

 正面は工業団地である。車の行き来もなくひっそりしているのは正月休のためであろうが、この先行き不透明な幕開けの新年では、つい不景気の影響ではないかと疑いたくもなる。

 ミカン積み出しの農道が、上か眺めると幾重にも曲がりくねって麓に続いている。麓まで太陽を真正面に受けながら、農道を歩くのも何となく気分が晴れそうである。

 家に帰り着くには少し回り道になるが、トレーニングの一環だと思えば苦にはならない。野鳥のために取り残したミカンを人間様が横取りして食べながら農道を下った。

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