三俣山荘ははるか彼方に   (7月25日 三俣山荘泊まり)

夜中目が覚めた。時計を見るとまだ11時である。3時間しか眠っていない。いつもの睡眠時間は大体5時間ぐらいだ。睡眠時間が短くなったのは歳をとった証拠だと、目糞鼻くそ(同年輩)同士で笑いあっているこのごろだが、3時間では寝不足になる。いびきに悩まされているわけでもないのだから原因は寝床の違いかららしい。神経質な者は山泊まりに向かないし、疲れて損な性質である。

なかなか寝つけない。目覚めてから2時間が過ぎた。何となく苛立ってくるのが分かる。気分を変えるためにそーっと起き上がってトイレに出た。尿意があって起き上がったわけではない。トイレは早々に済まし外に出た。
 8人が一部屋にくっつき合って寝ても毛布を被らないと寒いくらいの涼しい夜だが外はもっと涼しい。半袖のシャツでは腕が寒いくらいである。

「こんな近くに星が・・・」空を見上げ声を出しそうになった。周りは樹林に覆われていて、山小屋と狭い広場の上の一角だけが星空である。
 ほんとうは星の数はこんなに多かったのだ、それに鈍い光ではなく眼を射るような澄み切った蒼い光を発していたのだ、常日頃見かける星との違いに驚嘆し見上げていた。いつのまにか苛立ちは消えていた。

周りの者が起きる物音で目が覚めてのは4時であった。
 窓越しに外を眺めると4、5人のパーティーがすでに出発している。ザックを持って小屋の外に出る。丸太造りのベンチで弁当(朝食)をザックに詰め込み準備は終わった。全員揃ってオレンジハイキングクラブメニューのストレッチ体操に時間をかける。

「怪我のないようにゆっくりと」リーダーの合図で第一歩を踏み出した。
 先頭はサブリーダーのAさん。北アルプスは知り尽くしたベテランである。ゆっくりとした足どりで進むAさんをはやる心を押さえきれずに追い越して諌められる。
 1800mの高度差を1日で稼がねばならない今日が、この山行の成否を分ける、とサブリーダーはこれまでに何回も話していた。

今日1日がどういう結果になるのか皆目見当がつかないがすでに歩き出した。これからは自分を信じ、自分で一歩一歩足を交わすしかない。憧れがしぼみ、不安が膨らんできて、なんとも心細い心境である。道幅は広く、舗装された林道を歩きながら心のなかは険しい道のりのことばかり想像する私だ。

ブナ林の中を通り抜け、蒲田川左俣の橋まで来るといよいよ小池新道になる。橋のたもとはのり面の大崩壊で交通止め、右に折れて橋を渡りのり面工事用の索道ウインチのすぐ傍を通り川に下りる。木製の桁にベニヤ板を張った仮橋を用心しながら向こう岸の河原に渡る。

広々とした河原は大小さまざまの丸味をおびた石で埋め尽くされ、まさに賽の河原の表現が似合う風景である。所々にペンキを付けた石がが見える。これを目当てに石ずらを踏んで進む。激流で洗い清められた石面は苔一つ着いていないから安心して踏ん張れる。

 斜めに河原を横切り背の低い潅木が生えた岸まで来ると岩と土の凸凹道に変わり、木々に遮られ視界も悪くなる。これでやっと本来の小池新道になったようである。上に登るにしたがい沢の水の音が大きく聞こえてきた。また賽の河原に似た光景が眼前に開けた。ここが秩父沢だ。橋を渡り雪解け水の流れるすぐ傍でザックを降ろした。

時計は6時30分を示していた。山小屋を出てから1時間半である。ここで雪解け水を汲み、コンロで味噌汁とコーヒーを造り朝食にする。腰をおろすと対岸の向こうに西穂高の秀麗な山容が見えた。ここまで登ってくる間、西穂高に背を向けていたから気付かなかった。こんな風景を眺めながら朝飯が食えるとは何と幸せなことか。これからの4日間、行く先々でこんな素晴らしい眺めが待っているのだと思うとわくわくしてくる。冷たいご飯だが熱い味噌汁の美味しさと眺めの素晴らしさで食欲をそそり一気に食べてしまいそうになる。ここでの弁当は半分だけの約束、未練を残しザックに収めた。あとは飴玉で腹の虫をなだめるしかない。  


  朝食を摂りながら西穂高を眺める

それにしてもここまで1時間30分とは予想外のスローペースだ。調子の出ないBさんの荷物を分担して持つことにした。
 登るに従って傾斜はきつくなる。歩き始めて3時間、今日の行程は9時間である。時間にして三分の一が終わったばかりだ。私が険しさを過大評価し過ぎていたのか、それとももっと険しい所がこれから出てくるのか知らないがいまのところ疲れは感じない。それは普段よりゆっくりペースになっているからだろう。

鏡平山荘に着いたのは9時50分。予定より1時間20分遅れている。依然としてBさんの調子は回復しないようである。
 先に着いていたメンバーは鏡平の池に写った槍・穂高の投影を写真に収めていたが、私たちが着いたときにはガスに遮られシャッターチャンスはなかった。鏡平で人気のある掻き氷を食べたいと言う女性の申し出を蹴ってリーダーは先を急いだ。リーダーの頭の中にはこの時間の遅れをどう組み立てなおすか頭がいっぱいで女性の食いしん坊の心理を満たしてやる余裕はなかったようである。リーダーは次の双六小屋まで登ってみてからBさんの行動を見なおすつもりでいるらしい。

弓折岳の山腹を巻きながら登って行く。稜線に出てここでザックを置いて弓折岳まで往復20分だが諦めて先へと急ぐ。いく種類もの花が咲いているが名前を知らずに残念である。黒百合だけは分かった。稜線を何回か登り降りして道は左に折れてハイマツ地帯の山腹を降りていく。双六小屋の赤い屋根、カラフルなテントが見えてきた。

双六小屋に最後尾が辿り着いたのは13時50分。到着予定は11時だから大幅な遅れようである。ここで大休止。行動計画の見直しをしなければならなくなった。出発前に、1グラムでも荷を軽くと減量に減量したがBさんの荷物を分け合って担いできたその影響が肩や腰に出はじめている。初日から大誤算である。

今夜の宿泊地、三俣山荘まではまだ先が長い。耳栓を詰めて寝るまでに何が待ち受けているか予想がつかなくなった。


黒百合

   黒百合の花

双六小屋を望む
    弓折岳中腹から双六小屋方向を望む

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